カテゴリ:やさしい神道(仮題)( 4 )
森羅万象のからくり
まずは久しぶりの「やさしい神道(仮題)」から書いてみましょう。

日本人自身が神道をよく理解していないので、靖国内政干渉問題にもつい頷いてしまう。
死に対する考え方、つまり信仰が違う国から自国の信仰に難癖をつけられているということは
唯一神しか認めない非寛容な宗教だったら宗教戦争に発展しかねないおおごとなのです。
多くの日本人が、自分自身は「宗教」と何も関係ないと思っているので戦争にならないのです。

しかし、日本人自身が神道を理解していないことを、別に嘆かわしいとは思っていません。
私がこのシリーズを書き始めるにあたって、神道の正解や指標を示す気はありませんでした。
神道に正解はないし、明確な指標を示すことが神道の理念に沿っていると思わないからです。
神道も時の移り変わりによって形を変えてきました。
ですので厳密な「正しい神道の在り方」という概念はないと思っています。
私が神主の血脈であることを知った人が、「靖国は本来の神道とかけ離れていませんか?」と
暗に靖国批判(明治に生まれた国家神道への批判)を促すケースが稀にありますが愚問です。
信じる人がいるならばその宗教は成立します。
その信仰の「正しさ」「正当性」を他者が判断することではありません。

日本人の問題は、宗教・信仰全般に対する意識が浅薄であること。
日本人に信仰がないわけではなく、日常に、意識しないレベルで信仰が根付いているのです。
意識せずとも信仰に基く倫理観・道徳観によって規範が形成され成熟した社会が成立している。
これは日本人の信心深さと心の豊かさをあらわす素晴らしい現象です。
ですが、鎖国時代ならいざ知らず、国際化社会において無意識のままではいられません。
日常の中にあり、自分の心の中にある信仰をもっと考えてみるべきではないでしょうか。


さて、神道への理解を深めて頂くにあたって、最大の難題は教義がないことです。
聖書、コーラン、経典に相当する、教義・戒律というものが神道には存在しないのです。
なぜ教義が存在しないのか? 私なりに考えた仮説はこうです。

○ 神道は、人間の想像を超えたものを神と定義しているからではないか。


唯一神を信仰する一神教の神は、人間の脳が作り出した「理想の人間像」です。
理想の偶像だから、人間ではなく「神」という人間以上の「超人」域に位置しています。
しかし人を超えた存在――超人であっても、しょせん人間が考えた「理想の偶像」です。
怒られそうですが、人間の想像や願望の域を出ない「超人像」がそこにはあります。

対して人間の想像や願望を本当に超越した存在は、「自然」です。
自然現象は人間の思いのままにならず、人間を救うこともあれば苦しめることも山ほどある。
雨を降らさない空を罵っても無意味であるように、いくら気象科学が発達したところで
本当の意味で自然の意思を熟知し、理解することが可能な人間はいないのです。

神道の基となった古来の日本の土着信仰は、この自然に対する崇拝でした。
環太平洋山脈の上、4つの海洋プレートの真上に位置し、四方を海に囲まれた日本列島は
自然がことのほか厳しく、また同時に自然によって豊かな恵みももたらされる島でした。
自然を畏怖し、自然に感謝する自然崇拝の信仰が生まれたことも、当然の成り行きでしょう。
ちなみにお隣の韓国では自然が厳しくないせいか、自然崇拝は邪教とされているようです。
長い間、日本人は、人間には律することができない自然と常に一体に生きてきました。
人間と自然は対峙しあう、制しあうライバルであると同時に、共に生きる関係であり
人間もまた自然の中の一部だったのです。

自然の気まぐれに法則性も何もないので、教義など生まれるはずがありません。
人間はこうあるべきでこうしなければならない、という指針が存在するとしたら、それは
自然の環の中で精一杯生きて、自分の天寿を全うすること、だけではないでしょうか?
死者を貶めてはいけない、手厚く弔わなければいけない、という日本人に根強い信仰も
“人間もまた自然の一環である”と考えれば説明がつきます。
自然界において、殺した死者(死体)を必要以上に玩弄し、執拗に鞭打つ動物はいません。
日本人特有の信仰、怨霊信仰の誕生はまたのちのちの話となるでしょう。
雨乞いなどの自然崇拝の祭礼の延長と考えて良いのではないかと思いますが…。


ここで汎神論を出すと面倒になるかもしれませんが、避けて通れないので触っておきましょう。
万物に「神」が宿るという汎神論は、人間もまた「神」であり、「神」不在同然になってしまう。
そういう論争が西洋の哲学者の間で起きましたが、いかにもキリスト教社会らしい論争です。
人間を超越した存在、「超人」がいなければいけないはずだ、という価値観が見て取れます。
人間の理解の範疇を超えた自然と共存してきた日本人にはピンと来ない葛藤かもしれません。
死んだ人が神になる、という言葉が誤解されるヒントがこのあたりに隠れていそうですね。


「神道は教義もない」と言って神道を野蛮な宗教だと見なす人がいることには失笑します。
ありがたい教典に書かれたありがたいお方の言葉しか信じられないのでしょうか?
人間が創造した“形あるもの”と権威でしか、生きる指針も規範も得られないのでしょうか?
相当な権威主義であると同時に、精神文化の荒み具合もこの方からはよく見て取れます。
他者を「異常者」と公の場で平気で罵倒するような方ですから、心の荒み具合も推して知るべし。
最近目新しかった罵倒語は、別の方の発言ですが「イヌ脳人間」ですね。
自分の言葉を理解できない人は「イヌ脳人間」、という文脈だったそうですが…。
このような方々に信仰の問題を語って欲しくない、と思うのは私の我が儘でしょうか。

冒頭で述べたように、信仰が違う国から自国の信仰に難癖をつけられる、ということは
宗教戦争が起きてもおかしくない異常な事態、国の一大事になりかねないおおごとなのです。
ムハンマドの風刺画に対してイスラム教徒が見せた反応は、別に彼らが異常なわけではなく
信仰とは文化と心の問題であり、価値観の異なる異教徒が安易に手を出したら大火事になる
ということをあの騒動はあらわしているわけです。
極論を言えば、信仰に対して鈍感な人間には信仰を語る資格はないと思っています。
私も残念ながら信仰論を記せるほど宗教的知識が豊富ではありませんので、
靖国ひとつとっても、評価を明文化した記憶は(覚えている限り)ありません。
しかし、自分が信仰に対して鈍感・無意識であることは自覚しておくべきではないかと思います。

自然という言葉から喚起されるもの、私の場合、それは青い空や草原や海ではなく
時間の流れと、冗談のように生まれ、そしていつか死滅する宇宙のからくりです。
私たちは生きているのか生かされているのか、私たちの支配者は時間と宇宙ではないかと。
人間が地球の支配者だなんておこがましい。
自然との共存を、という呼びかけも、人間主体ですから心に響きません。
いつか沈黙するこの宇宙の時間とからくり、その中で生きる自分はなんだろう。
束の間の夢の時間に過ぎないかもしれないこの時に、生きていること自体が奇跡です。
自分がここに生きていること、生かされていることが一番の奇跡なのです。
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by yuzuruha_neko | 2006-03-12 23:42 | やさしい神道(仮題)
日本人はデフォルト仏教徒なのか
忘れた頃にやってくる、「やさしい神道(仮題)」です。
日本人の宗教意識について、前々から違和感を覚えていたことを。

いや、ちょーっと不思議なんですよね。
「無宗教」と答える人も多いかと思うのですが、「仏教」と言う人が多いよなぁって。
私はキリスト教もユダヤ教も仏教もイスラム教も嫌い。
派生したものも同類と見なして受け入れられない。
理由を問われれば、「布教や教義の違いを理由に戦争を起こすから」と答えるのですが、多分、人間を超越した神様(仏様)という概念が嫌いなんだろうな。
あと、あれをしろとかこれはするなとか、なんで本(教典)ごときに命令されなきゃいかんの!
無益な殺生はよくないとか親は大事にするとかそれくらい基本で当たり前ですし!
手塚治虫の「ブッダ」を読みましたがどうも感銘は受けられなかった。
まあ、「アドルフに告ぐ」でも感銘は受けませんでしたが。
仏教はのほほんと長閑なイメージを持たれているようですが、六道輪廻とかすごいイヤ。
延々と輪廻し続けていたら、命を終える安らぎがないでしょう。
日本人は外来文化と固有文化の融合に節操がないので(そういう日本人らしさは好き)、神仏混合によって現在の生活の中にも仏教由来の文化風習が根付いており、そういったものをあえてわざわざ拒否・排斥しようとは思いません(その懐の広さも日本人なんだよね)。
しかし「あなたは仏教徒か?」と問われれば、「NO」です。

神道の説明のし難さのひとつとして、「教徒」に相当する言葉がない。
神道はもともと土着信仰であり、自然に恵まれ、かつ自然の厳しさも同時に知る日本人が、自然を畏怖し、稲穂や作物を実らせるお天道様や雨や野山や川や水、生活を支える身の周りの万物に敬意を払う、という性質の生活密着型の信仰でして、神の息子や神の預言者によって広められた宗教とは同列に語れないのです。
祭司とて特別な人間ではありません。
「日本人は『罪』という意識が希薄」と言われる所以は、「教義に反する者を罰する(罰せられる)」という宗教的な背景を持たないせいかもしれません。
その代わりに家族や隣人、生活を共にする共同体を大切にする、という意識が強いのではないかと思うのですが、この意識は近年とみに蔑ろにされているようで悲しい。
日本人が美意識を捨てれば縛りのなくなった宗教団体のように心は荒れすさみ、オウム真理教のような幼稚で惧れを知らぬ犯罪集団になってしまいかねない…かもしれない。
「現世に寄る辺(よるべ)がない」「何かにすがりたい(頼りたい)」と痛切に感じ願う人が宗教団体に入信して熱心な信者となるのかもしれませんが、これも日本人が己のルーツを喪失しつつある現象の一種かもしれません。
誰が見ていなくてもお天道様が見ている。
何より自分の心が自分を見ている。
このような自信を取り戻して頂きたいですね。
どの神様を祀ろうとも、神社の本堂(神殿)に奉納されているものは鏡。
これは興味深いと思いませんか?
拍手(かしわで)を打って拝むのは自分…?

さて、神道には教徒、信者という概念が存在しない。
氏神と氏子は決して教祖と信者の関係ではないのです。
自分は一体どの宗教に帰属しているのか、ますますわからなくなる。
外国では、「信仰がない」は、「愛国心がない」と同じくらい驚かれる言葉でしょう。
ただ、神道の死生観は共鳴できますね。
もう少し、神道のお勉強をしてみます。
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by yuzuruha_neko | 2005-09-19 00:33 | やさしい神道(仮題)
先祖の御霊を慰め敬い奉るべし
yeppun_iさんの「みたままつり」レポート

私もこれを見て靖国神社に行きたくなりました。
今夏は(毎度の事ながら)まとまった休暇は取れなさそうで、余暇を見つけて都内の花火大会や遊園地、プールなぞ行こうかな、と思っていましたが、プラス是非靖国参拝をしたいと思います。
お盆は休みが取れるかな~。
さすがにお盆は入電も少ないと思うのだが…。

神社仏閣はそもそも清浄な場所でありますが、ここには先祖を敬い奉り、「お陰さまで子々孫々元気でやっております」という人々の思いがぎっしり濃縮されているようで、写真を眺めているだけで心が和らぎ落ち着きます。
「先祖を思ふ 家族を思ふ 国を思ふ」という句。
当たり前の事なのに、なんと胸が熱くなる句でしょう。
参拝なさる方々の胸の内は人それぞれかと思いますが、先祖に手を合わせる時、邪念や悪意などあろうはずがありません。
先祖を敬い奉り、今の暮らしに感謝しながら「不束者ではございますが今後とも何卒私共を見守りください」と頭を垂れ、人々は先祖が築き上げた今の生活に戻って行きます。
奉納された商店街や企業、各地の遺族会の提灯は、先祖への感謝と安寧への祈りであり、おぞましい「軍靴の音」などとは到底結びつきようがありません。

(NAVER総督府は有志の歴史学術研究機関であり、右傾化した政治思想団体ではありません)
(…で、いいんですよね?いっぷに&散歩さん)

日本はあの戦いに敗れたために、長い年月、戦火に散った多くの先祖を敬い奉る事も「軍国主義復古」「右傾化」などと良からぬ事のように、殊に国内の「平和主義者」から批判の的とされてきましたが、先人に感謝し、その魂を慰め敬い奉る事は軍国主義でもなんでもありません。
その時代に生きた人々がいたからこそ今の私達がある。
戦勝国から下された「戦犯」というただ一言で、その時代を生きた方々を否定しないでください。
先祖が命を燃やし戦ったという事実を否定しないでください。

先祖の御霊(みたま)を慰める事は子孫の務めです。
それはイデオロギーではなく、国・郷土・家族を愛する心と同一線上にあるものです。
日々の暮らしの中でも先祖に対する感謝の気持ちを忘れないようにしましょう。


ちなみに私の一族のお社は厳密に言うと靖国とは系統が異なるのですが…。
宗派同士の対立が激しい仏教と違って神道はそのへん緩い。
どこに参拝しようと極めてノープロブレムなのです。
お稲荷さんでも八幡様でもどこでもお参りしちゃいます。
(ほんとはいけないのかな…?)


先祖を敬い奉る、御霊を慰める。
これは重要なファクターとなりますので、「やさしい神道」にカテゴライズします。

参考:御霊信仰(ごりょうしんこう)
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by yuzuruha_neko | 2005-07-18 22:07 | やさしい神道(仮題)
メモ
神道

シャーマニズム

アニミズム

汎神論

祖霊

神仏習合


神道と言えば靖国!もっと遡って古代神話の浪漫!…と論じられがちですが、そもそもの「神道的な物の見方・考え方」の下地を作った日本の郷土的な自然観・死生観・霊魂認識について、思うところを書いてみようと思うので(と言っても論文のようなお堅いシロモノではなく、散文・エッセイ程度のもの)、メモを取っておきます。
出展はすべて、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』。
あ、ずっこけないでください。
便利なので~。

なぜ書いてみようかと思ったのかと言うと…一口には言い難いのですが…。
靖国問題などで騒がれる「神道」は、「国家神道」という要素抜きにしても、本来の神道の姿から大きくかけ離れて皆の頭の中に思い描かれているのではないか?と常々思っていたからです。
私は巫(かんなぎ)の子孫であり、実際に現在もお社を守る家の血を受け継いでおります。
お社の非日常的祭事も日常的生活も存じております。
数代前に傍流とはなりましたが、私の中に日本古来の「神道的な物の見方・考え方」は色濃く残り、息づいており、このような運びとなったやもしれません。
断っておくと霊感などは一切ありませんので!
親戚にもそんな人いないですから!

日本人の死生観・宗教観は、日本の自然と深く関わりあっています。
そのような話で終わるかもしれません~。


(つづく…といいな)
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by yuzuruha_neko | 2005-07-12 01:12 | やさしい神道(仮題)