「風が吹く時」の核シェルターを思い出した
空襲避難中に全身やけど 芦屋の女性、国を提訴 
http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/0002236763.shtml

太平洋戦争末期の空襲で、避難した防空壕(ごう)に焼夷(しょうい)弾が落ち、全身にやけどを負った芦屋市津知町の永井佳子さん(77)が9月にも、国に損害賠償と謝罪を求める訴訟を大阪地裁に起こす。昨年12月8日に空襲の被災者や遺族ら18人が提訴した大阪空襲訴訟の第2次提訴に加わる。15日で終戦から64年。永井さんは「人間が虫けらのように扱われる戦争が二度とあってはいけない」と訴える。(宮沢之祐)


1945(昭和20)年6月1日朝、永井さんは大阪市天王寺区の高等女学校で授業中、空襲に遭った。警戒警報で運動場の防空壕へ。穴を掘り、天井に板を渡し、土をかぶせただけの防空壕はもろかった。焼夷弾が板を突き抜けてきた。一方の入り口が崩れた。炎をまたいで服が燃え上がったが、外へ出られた。

外は火の海だった。逃げ惑ううち警防団の男性が、けがを見かねて医院に連れて行ってくれた。そこで意識を失った。

奇跡的に命を取り留めたが、歩けず、口も開けられず、傷口をうじ虫がはった。自宅は焼失。つてを頼って転居を重ね、終戦は篠山市で迎えた。

障害は残らなかったが、やけどのあとは体中にあった。銭湯が嫌だった。「皮膚病がうつる」と言われた。スカートをはいたことがない。

なぜ、国は、あんな粗末な防空壕を造らせたのか。戦後も憤りは消えなかった。講堂の消火が優先され、生徒は放っておかれたとの思いも強い。

新聞で知った大阪空襲訴訟の傍聴を昨年から続ける。足を失った原告らの過酷な半生を聞き「私だけが、こんな目に遭った」との恨みは消えた。一方で「私たちのような苦しみは繰り返されてはいけない」との願いは強まり、提訴を決意した。

空襲の民間人被災者には何の補償もないまま戦後64年を迎える。原告代表の安野輝子さん(70)=堺市=らは、兵庫県内での空襲被害者にも提訴を呼びかけている。

(8/15 11:04)



麻生総理が8月6日に原爆症の訴訟団体すべてを救済すると言ったら野党が「なぜこの時期に?」と893の因縁レベルのこと言ってたけど、これこそ「なぜ今に?」と思わざるを得ない。
今の日本政府を訴えてどうすんだっちゅう…なぜ焼夷弾を落としたアメリカを訴えないんだ。
なんだろう…ナイフで刺された人が、加害者ではなくナイフの販売店を訴えるくらいの頓珍漢?
大変お気の毒な話だとは思うが、もしこの訴訟が成立するなら日本の都市部(に限らず空襲で被害を受けた場所)全部で同じ訴訟ができちゃうだろう。
おかんの実家(宮城県内陸部)のあたりですら戦時中は稀に空襲を受けたそうだから(しかしあんな田圃と農民以外何もないとこ空襲する意味ないから持って帰るのがめんどくさい余り弾を捨てて行ったんだと思う)、空襲被害だけを言ったら日本全国津々浦々の人が何某か被害を受けていそうだな。

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by yuzuruha_neko | 2009-08-15 18:03 | 今日のニュース・雑考
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