差別というもの
フェミニズムと男解、ルサンチマンは行き詰る宿命?の続きです。
論客神名さんの解説を“自分の言葉”で話せるかどうか、これはかなり難題である…。

頭の出来が芳しくない私が必死に構図を単純化してみようと頑張った。

性差による差異や区別を「性差別」と捉えてしまう人たち、男解やフェミの人たち。
その人たちはその「性差別」を撲滅する運動(男女同質論や性の均等化)に行くわけだが、
そのためには「性差別」が世の中に蔓延していなければ、運動推進の前提が成り立たない。
だからどんな些細な性差による差異も区別も「性差別だ!」と騒ぎ立てることになる。
例えば「奥さん」「家内」という呼称、夫婦同姓、映画館やレストランのレディースデイ。
“進歩的知識人”を自称する彼らにとって、大概矛先は旧来の慣習や伝統に向かうことが多い。
だから「家長制度」や「男が女や家庭を守って当然という意識はオカシイ」という批判が出る。
「差別された男」と「差別された女」が、性差をもとに互いに相手を責める風潮を広めたい。
ここに彼らの「男女対抗図式」が生まれる、というか生きてくる。
性差があるからいけないのだ!という人たちが、実はその思想啓蒙のために性差を必要とする。
違う性の生き物を仮想敵として、その敵が自分にもたらす不利益を責めるためである。
まるでマッチポンプみたいだが、これが男解とフェミの共通項じゃないかと思うのだ。

ここに「被害者であるほうが強い」という世間一般的なパワーバランスも働くので、
自分のほうがより理不尽な被害を被っていることが、彼らにとっては大切なアピールである。
「性差によって理不尽な被害を受けてきた」と今までは女性ばかりが声高に主張してきたので、
それに反発心を抱いた男性が「男の苦労も知らないで女は…」と男解に走るのだろうか?
どちらにせよ、自分の“損”をすべて性差、いや「性差別」のせいにする輩はアホーだと思うが。
この考え方には異論反論あるだろうが、男には男の世界があるし、女には女の世界がある。
違う世界が交わることで、新たな発見やときめき、敬意や愛情も生まれるというのに。
男の世界に馴染めない、女の世界に馴染めない、という個人的感情を蔑ろにする気はないが
それを一般論として性差否定、そのための男女対抗図式を作り上げないでほしい。

で、神名さんが同和問題にも言及してくださったが、
同和問題も男解やフェミが作り上げる構図と同じ構図だと考えれば腑に落ちる。
この平成の世で、依然として部落差別がなくては彼らの運動自体が成り立たないのだ。
だから「部落出身者はこんなに差別されている」と教育の現場にまで入り込み刷り込ませる。
(幸いにして東北の血を引き東京で生まれ育った私はあまりその手の教育を受けなかった)
刷り込まれた子供は「部落出身者は被差別者である」と認識して成長する。
建前では平等と解放を求めながら、彼らは「部落差別」を生き長らえさせるのだ。

在日朝鮮人問題も似たような構図で説明できそうな感じだ。


すべての差別が単純化できるとは思わないし、差別の根っこ自体は深いものだろう。
しかし、被差別を謳うことによって何某かの“得”を得ようとする行為は、人間として醜い。
虐められていた、不遇な家庭環境だった、そんな自分の不幸も自慢の種にするべきではない。
「アナタにはこんな経験がないから所詮わからない」って、何ガラスのハート気取ってんだ!
誰もが何かしら理不尽な“損”を被りながら、自分が置かれた環境で精一杯生きている。
「自分はこんなに損をしている!」と騒ぎ立てる人間が冷ややかな目で見られるのは当然だ。
損をなくす方策を考えるならともかく、損がなくては行き詰る運動など何の意味がある。

差別や人権で飯を喰う人間は、本当にこの世から消えてもいいクズ。
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by yuzuruha_neko | 2006-11-25 23:43 | 今日のニュース・雑考
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