不幸のカード
「私は毎日が苦痛でたまらなく不幸だ」と言う人がいて
果たして私にその言葉を否定する資格はあるのだろうか。
幸せな家庭や素敵な恋人や裕福な暮らしがあるからといって
「あなたは随分恵まれている、不幸なんかじゃない」と
その人ではない、他人の私が言えることだろうか。
当然ながら幸福や不幸の度合いを測る物差しはないので、
本人が「自分は不幸だ」と思えばその人は不幸なのかもしれない。
他人から見て恵まれた境遇にいる人が必ずしも幸福なわけではないし。
しかし、幸福や不幸を完全に自己申告で判断していいものか。
どう見たってアンタ恵まれているじゃん!という人が
悲劇の主人公のような面を下げていたら腹が立つ。
例えば働かなくても誰かに養ってもらえて生活に困らない人。
旦那の稼ぎで超高級ブランドのスーツを買っちゃうような人。
それで「私は虐げられている、不幸だ!」と言われてもねぇ…。

そう、「不幸」を理由にされると腹が立つのは人情である。
(むしろ憐憫の情をかき立てられる人もいるが、私は違う)
不幸だから私の言う事を聞け、不幸だから何もかも不問に処せ、
そんなふうに理不尽な要求をされたら、その人が疎ましくなる。
ちょっと身体が不自由だから手を貸してください、と言われたら
「お安い御用」「お互い様です」と別段腹も立たないのだが…。
周りにさんざん迷惑をかけたり不快感をまき散らした挙句、
「不幸だから許して、わかって」なんて言われても承服しかねる。
私の心が狭いのか、世の中の人はもっと無関心なのか。

心身ともに不遇だと周りに迷惑をかけてしまうことも多々ある。
それはお互い様で仕方ない話なのだが、「だから許して」には抵抗がある。
どこまで許せるかという懐の深さの問題でもあるのかもしれないが…。
要するに「不幸」を免罪符にしてもいいのかという問題なのだろうな。

それはそれとして、「私は不幸だ」と思えばその人は不幸なのか。
幸福か不幸か、それは本人の認識を最大限尊重するべきなのか。
「倹しい暮らしをしていても笑顔で幸せに暮らしている人がいる」とか
そういう美談の類のたとえ話では、この問いの答えにならない。

私は自分が生きていることは奇跡だと何度も書いたが
奇跡=幸福ではないので、自分が不幸だと思ったこともある。
「自分は不幸だ」と言っても意味がないので言わないだけ。
もし私が「不幸」だと知った途端に態度を変える友人がいたら
多分ショックを受けて人間不信になるだろうなと思う。
この手合いの札は空気を読まずやたら切るものではないのだ。
しかしこの札は人間関係において非常に有効なカードらしく、
「私は虐げられている、不幸だ」とアピールする人は驚くほど多い。
だからこうして幸福と不幸の定義を考えさせられてしまう。
本当は、考えても面倒なのであまり考えたくないんだが…。

自分が幸せか不幸せか、四六時中考えている人って
多分あんまり幸せな人じゃないんだろうなぁ。
[PR]
by yuzuruha_neko | 2006-04-03 20:26 | 今日のニュース・雑考
<< タグ機能追加だそうでテスト 自己犠牲の精神/くらたまイタ杉 >>