「正常体であること」の傲慢・卑怯
ホモだと言えば嘲笑されるが性同一性障害だと言えば憐れまれる。
性格がおかしな人(根暗とかヒステリーとか)も精神疾患の病名がつけば同情される。

そういう文章をミクシィで読んで、なんだかすごく嫌な感じを受けた。
実はその文章を実際に読んだわけではなく、要約した文章を読んだんだけれど。
その元の文章を書いた人は、なんと共産党員だという。
共産党って「弱者に優しい」「差別を許さない」が売りじゃなかったっけ?
差別を許さないはずの共産党員がこんなマイノリティ差別の文章を書くことに驚いた。
で、何がそんなに生理的に嫌な感じを受けて、反発感情を抱いたのか考えてみたら、
「自分はマイノリティではない、ノーマル(正常体)である」という絶対安全地帯から
マイノリティを嘲笑される存在、または憐れまれる存在と見下している点だ。
これは実際に日常生活においてもよく見られる現象である。

「なんかあの人クライよねー」「ダサイ」「オタク」「キモイ」…
いずれも自分がそういったマイノリティ的素質を持っていないと確信しているから言える科白。
もしくは自分はそういった素質を持っていない側に立っていることをアピールするための科白。
真偽の程はわからないが、男同士で「あいつホモなんじゃねぇ?」という会話を交わすのは
その発言によって自分がノーマルである事を誇示するためだと何かの本に書いてあった。
日本文化を語る上で男色は外せないし、何だかんだ言いつつ日本社会は男色に寛容だが。

辞書でノーマルの意味を引くと「正常(な状態)」「普通」と記されている。
対義語として、アブノーマル→「異常」「正常ではない様」と出る。
世間一般的に普通とされる常態がノーマルであるなら、マジョリティとノーマルは同義語だ。
アブノーマルがマイノリティである所以は、ノーマル(=世間の当たり前)ではないからである。
ライトなアブノーマルが好まれる傾向もあるが、あくまで異常ではない範疇においてだ。
誰だって…と言うと語弊があるが、大概の人は「異常者」という烙印を押されたくない。

性癖や嗜好、病気に限らず、身体的な特徴・家庭環境・人種・国籍なども
マジョリティ=ノーマルと、マイノリティ=アブノーマルの判定に含まれる。
例えば身体障害者であったり、父子家庭・母子家庭だったり、日本国籍を有していなかったり。
マイノリティ=アブノーマルと判断される素質を持った人々に、どう接すればいいのか。
これは本人の気の持ちようや自意識に左右されるだけに十派一絡げに判断できない。

私は幸か不幸かアブノーマル(マイノリティ)と思われる素質を持ち合わせていない。
普通、ありきたり、標準体、凡人…およそマイノリティとはかけ離れたフツーの人だ。
悲しいくらいフツーだが、普通が一番、非凡であることは苦労の元だと思うので不満はない。
女としても、社会人としても、日本人としても、人間としても、ごくごくフツーとしか言いようがない。
そんなフツーの私だが、フツーという安全地帯からフツーじゃない人を品定めしたくない。
アブノーマル、マイノリティと思われる人のどこがフツーと違うのか、
それを見定めないとその人個人とはお付き合いできないと思う。

私のマイミクに多分ゲイと思われる男性がいるが(本人も別に隠していない)
その人は男の人が好きだという以外は別段変わった発言をする人ではない。
なぜ男の人が好きになったのか、そういう立ち入った話はしたくないしその人もしないので
別に男色趣味をもってその人を特別視することはないと思っている。
マイノリティであることをひけらかすことなく引け目にすることなく普通に会話している。
だったらこっちも気にしないでマイミクとしてお付き合いしていればいい話だろう。

トランスジェンダー(性同一性障害)の人ともお話する機会が得られたが
彼女(と呼ばせて頂く)たちは非常に聡明で頭が切れる、論客として尊敬できる人たちだ。

彼や彼女たちに対して、ノーマルという安全地帯から嘲笑や憐憫の情が沸くことはない。
むしろノーマルであること、マジョリティであることを考えさせられて勉強になる。

時にマイノリティであることがそんなに偉いのか、と思うことがある。
(某有名アメリカ人コメンテーターとか見ているとね)
しかし今回はマジョリティであることがそんなに偉いのか、と思った。
嘲笑・憐憫という表現に、ノーマルでありマジョリティであることの驕りをぷんぷんに感じたのだ。
何よりも、自分はノーマルという安全地帯にいて、そういう発言をすることが卑怯だ。
ノーマルな立場からだったら何とでも言える。
「あいつホモじゃん?」「あの子ダサーイ、根暗」「ビョーキなんじゃない?」
それがトランスジェンダーや精神疾患の病名がついたら今度は憐れむのか?
マイノリティ、アブノーマルに対して嘲笑や憐れみの感情しか持てないのか?
彼らは自分と違うから、対等に接するべき人間ではないのか?

私は社会規範としてノーマル=正常という概念を否定しない。
しかし、ノーマルという絶対安全地帯に立って彼岸の人間を見下したくない。
どんな人間にも尊厳がある限り、「普通と違う」だけで見下せはしない。


話は脇道に逸れるが、宮崎被告の死刑判決を受けて――。
常軌を逸した凶悪犯罪が起きた時、犯人の精神鑑定を行うことには疑問を感じる。
精神鑑定(責任能力鑑定)の結果如何によって、弁護側が量刑を軽くしようとするからだ。
被害者の家族の憤り・無念に対して「犯人は精神異常で責任能力がなかったので…」
で済まされていいはずがない、いや済まされない。
犯した罪は償うべきである、これが社会規範というものではないか?

最近の弱者救済方法論エントリーやこのエントリーは私らしくないかもしれませんが…
実は人権擁護法案についてまだ私の中で結論が出せずに試行錯誤している状態なのです。
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by yuzuruha_neko | 2006-01-19 23:29 | 今日のニュース・雑考
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