勝利の歓喜と敗北の悔しさが生きる糧となり血となり肉となる
最近掲示板で「最近の親ときたら…」という小言老人みたいな遣り取りがしきりに交わされているわけですが、「最近の若い奴は…」と言う人が結構若かったりする不思議。
私なんか中学生くらいの頃から「最近の子供はさー」なんて言っていた。
自分はどうなんだ、自分だって子供だろう。
高校生くらいになると、またその中学生時代の青臭い自分が恥ずかしくて、「昔の私ときたらバカでさー、いわゆる若さゆえの過ちってヤツぅ~?」とか何とか照れながら言っていた。
昔、昔って、おまい1年で何歳年を取るんだっ!

我ながらそんな時間の進み方をする人生に時々疑問を感じるのですが、「いつだって人間はそうやって過去を振り返りつつ生きて行くもんなのかもナー」とまったく辻褄が合わない納得の仕方をしていました。
しかしそれは大きなまつがいだったかもしれない…。

-憂鬱なプログラマによるオブジェクト指向な日々-さんの2005年3月25日の日記を読んで。

それは「世代差ではなく個人差や階層差」だったのか―――!!

そんな事はっきり言っちゃうと角が立つから…
ヒトデナシの差別主義者だって思われて非難されちゃうから…

そんな本能的な危険回避思考から無理やり「年代の差」という事にしちゃっていたのか~。
納得!(したのか!)

赤十字(せきじゅうじ)を「あかじゅうじ」と読んでしまう子供について「バカじゃねーの?」というエントリーを私も書いたが、私自身は小学校低学年で赤十字は読めて、内実はよく知らないけれど、何か医療関係・福祉関係の活動団体だと思っていた。
赤十字が読めた理由は、その頃その地域の女の子達に人気があった遊びの中に、なぜか「赤十字」(せきじゅうじ)という名前の縄跳びのような、脚あやとりみたいな遊びがあったせいだと思う。
恐ろしい事に「ゲンバク」という遊びまであった…!(意味は知らなかった)
でも何となくですが、赤い十字架から病院、医療、福祉…というメッセージは伝わってきました。
同時に血生臭い感じも少し…。
しかし、その当時その場にいて、同じく赤十字で遊んで赤十字マークを見た事がある同世代の子が同じように感じたかどうかはわからない。
もしかしたら、赤十字は遊びで知っていても、赤い十字架マークと赤十字という言葉を結びつける事が出来なかったかもしれない。
その差は個人差…感性の個人差、知識の個人差、想像力の個人差…
ともかく子供にも厳然と個人差があった事は、今さらだが納得せざるを得ない。
しかし、「人類皆平等」思想の中で生活していると、「私って少し頭がいい(他者よりも優れている)かもしれない…」なんて考えはもってのほかで、「人それぞれなんですよ」という曖昧な着地点で思考をストップせざるを得なかった事も事実。
私の両親(特に母)が厳格な人で、「有頂天になり慢心するのは愚かな事」と常に厳しく言われてきた私は、自分をわざと過小評価する事も癖になった。
今現在の私はその呪縛が解けた反動か、「息吹さんは絶対自信満々!自信がないなんてありえない!」と断言されるほどエラソーなヤツになったが。
それでも「慢心に溺れてはいけない」という価値観は私の心に戒めのように根を張っている。

物事がうまく行っている時ほど足元をすくわれるんだ…。
万事油断せず慎重に行かなければ必ず自ら失敗の種を蒔く。

私の人格形成に、母は実に多大な影響を与えた。
そう考えると教育は立派な洗脳ですね。
子供を日教組に任せていちゃいかんよ…
子供がどんどんバカになる…。

私の母は高卒なのですが、この日記に掲載されているグラフを見ると少数派だったようですね。
ま、あの人は勉学に励む事に必死だった苦学生だったからねぇ…。
私はチョコレートも含めてお菓子なんて高校になるまで自分で買って食べた事なかったですよ。
もちろん親はお菓子なんて買ってくれませんでした。
何につけても「○○ちゃんも持ってる!」「ヨソはヨソ、ウチはウチ」の典型でした。
お小遣いは微々たる額で(もらっておいてひどい言い草は承知)、しかも小遣いとともに出納帳を渡されて、月末に残高が合わないとその分を次の小遣いから差し引かれていたんです!
今考えると実に悲しい話だと思いませんか?
子供にも経済観念をしっかり持たせなければ、という母の意図が泣けます(いろいろな意味で)。

コンビニやスーパー、商店街などの店頭に並ぶカラフルでジャンクなお菓子は私の夢と憧れで、そういうものを無条件に無尽蔵に買い与えられていた同級生は羨望の的でした。
友達の家に遊びに行った時に、友達のお母さんが頃合いを見て「おやつよ」と言ってお菓子を出してくれる事がすごく嬉しかったです。
あまりにも喜んで通っていたら不憫に思われた…。
オカアサンゴメンナサイ。_| ̄|●|||

貧乏から這い上がろうと必死だったお母さん。
子供をきちんと物理的・精神的に育てなければいけないと必死だったお母さん。
出席日数が足りない不良娘に苦悩しながら学校へ行かせ続けてくれたお母さん。
不況の中、ついに給与カットされても「辞めるわけには行かない」と働き続けるお母さん。
…すみません、今ちょっと江頭…目頭が…。
トリガラになるのも無理はない。
今度顔を見たら泣いてしまうかも。
まるで父不在か父無職みたいですが、父はいて一応まっとうなお勤め人です。
しかし腹が立つくらい能天気で無神経で計画性がない人なので(+親ばか)、逆にウマが合った夫婦なのかもしれません。
察しのいい方ならおわかりかもしれませんが、父の顔を立てながらも「かかあ天下」です。

所属による階層差で言えば貧乏人から庶民に成り上がった典型的な「中層階級」なわけですが、そういう厳格な両親の教育方針(※父は親ばかと言えども子供をだめにするようなバカ親ではなかった)を鑑みるに、私は頭の中は「インテリ層」に位置していたわけで…。
実家では朝日新聞と赤旗を取っていたしね!(泣)
個人差と階級差による厳然たる違いはあるのかもしれない…と思いました。

やっぱりさー「法の下に皆平等」という精神は理解した上で、しかし徒競走で順位をつけないとか成績表を絶対評価にして「頭の悪い子」という烙印を押さないとかそういう平等は間違っていると思うんだよね。
受験を競争社会の悪しき象徴とする意見も大新聞さんで見かけますが(だったらおまいんトコは中卒採るのか、合格者発表速報出さないのか)、良くも悪くも自分がやった事の成果が目に見える形でわかる事なんてそうそうない。
勝つ経験も、負ける経験も両方あったほうがいいと思います。
のっぺりべたーっとした平等主義の下で野性的な生存本能が育つわけがない。
また生存本能というものが理解できない人は、命の尊さも理解できないでしょう。

勝ち得たものを守るために闘い、負けの悔しさをバネにして闘う。
そういう健全な競争社会って悪い事じゃないと思いますよ。
人間誰しも本当に闘わなければいけない相手は他人ではなく己自身なのですし。
それも他者と闘う事によって初めて知る事ができるのだしね。
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by yuzuruha_neko | 2005-04-08 23:25 | 今日のニュース・雑考
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