「人権」と「差別」が難しい理由(わけ)
パソコンの前に煙草が2箱、ライターが3個。
どうにも頭が悪くなるわけだ。

煮詰まりすぎて職務放棄しそうになった今日。
何度も言いますが仕事が嫌いなわけじゃないんです。
暇な仕事場は私にとって拷問です。
しかし上司が無能だという事は許せない。
「目上の人間には媚び諂い目下の人間には威張る」という今時そんなステレオタイプな人を見かけた事はあまりありませんが、目下、目上、どっちに強く出るタイプかと言えば、私は目上にズケズケ物を言うタイプなのです。
目下の人間には何を言ったところであまり意味はないからね。
出来ない奴はしようがないもん。
でも上の人間が無能だと、下の人間が食わなくてもいい割を食うから嫌なんですよ。
人の上に立つ奴がその器に見合っていない事は許せん。
…というような事を、さらに上の上の人間に直訴して、気持ちも汲んで頂けて、「で、どうします?」と問われましたが、結局今日はあまりにも入電が多いため、職務放棄は思いとどまりました。
ついカッとなる癖は直さないとだめですね。
上に歯向かえるあたりは気楽な稼業のいいところだ。
きっと私は年功序列のタテ社会では生き抜けないタイプだろう。
横並び抜け駆け禁止のヨコ社会も苦手なので適当にナナメに生きています。

で、本題に入るわけですが。
人権擁護法案。
私の気持ちがぐらついていた事は、知っている人は知っている。
ニュース系ウェブログではネット世論のヒステリー化を危ぶむ意見が出ている事も知っている。
しかしね…私もよーくネットを見渡して、己を顧みて考えてみたんだけれど、やっぱりこれは一部の人達の専売特許的な話題で済ませちゃいけないと思うんだわ。
時事ニュース系ウェブログや思想系ウェブログでは「ネット世論の形成」や「この法案で結局誰が得をするのか?」などという、ついて行けない人にとっては頭ひとつ突き抜けたレベルで話をしているわけですが、そういう人達だけの話題じゃないと思うのです。
「断固反対しましょう!」ときっぱりはっきり私は言っていないわけですが、そんな風に、きっぱりはっきり言えないような、定義も解釈も非常に曖昧な事が法化されようとしている事が怖い。
人権って何だ?
差別って何だ?
この質問に明快に答えられる人はあまり多くのないのでは?
でも明快に答えられないほうが当たり前。
真っ当な感覚を持った人。

Aさんにとって何気ない事がBさんにとってはひどく差し障りがある事だったり、Bさんにとっては当たり前の常識がCさんには全然通用しなかったりする。
Dさんは子供を死産した人で、子持ちのEさんはDさんを可哀想だと思っているけれど、Fさんは障害を持った子供を抱えていて未婚のGさんはDさんにもFさんにも同じ言葉はかけられない。
そこでEさんがDさんとFさんに子供を産み育てる事の素晴らしさや幸せを得々と語っていたら、Eさんは「鈍感な人」という事だ。
またGさんがEさんを「子供を産んだ人ってどうしてそう鈍感になるのかしら」と言ったら、Eさんは自分の人生が否定されたような気がして気に病んでしまうかもしれない。
DさんがGさんに「私は夫がいるからこの悲しみに耐えられるの。あなたも結婚したほうがいいわ」と言ったら、Gさんは未婚である自分が恥ずかしいような気持ちになるかもしれない。
さて、誰が誰を差別していて、誰が誰の人権を侵害しているでしょう?

そして例えば。
同和問題というものの実態を私は目にした事がない。
知識としては知っているけれど、今時そんな差別が本当にまかり通るのか?と半信半疑だ。
ゆえに語り継がれた昔話、御伽噺のように聞こえる。
東北では普通に村を部落と呼ぶので、部落とは集落のようなものかと思っていた。
そこである人が何気なく「私は部落出身だから就職の時に苦労したわ」と言ったとしよう。
私が驚きつつ「へえ?そんな差別って本当にあるの?」と言ったら横から誰かが「あなた、部落差別について何も知らないのね!」と口を挟み、滔々と部落差別の歴史と実態を語り出す。
私はその話を聞かなければ「自分は部落出身」と言ったその人を、自分と何ら変わりない対等な人間だと思っていられたのに、聞いてしまったばかりにその人が「被差別民である」という事が気になり対等に見られなくなってしまう。
気を遣ったほうがいいのかしら?それとも普通に接するほうがいいのかしら?
過去にはこんなつらい事があったんじゃないか、酷い差別で傷ついた経験があるんじゃないか、と気をもみ始め、悶々と悩み、ついにはその人と上手く接する術が見つけられずにその人を敬遠してしまうようになってしまった。
そうやって、残念な事にひとつの差別が生まれた。
さて、差別を生んだのは誰でしょう?

差別の例として同和問題を挙げましたが、私にそのような経験はなくただの仮定、例え話です。
しかし、似たような話ってどこにでも転がっているような気がしませんか?
意見が合わなくなった時に互いに「人権侵害だ」と言い合う不毛な論議もありますね。
先日当日記でも取り上げた喫煙問題です。
(別に実際にそのような遣り取りが交わされたわけではありません)

ではもうひとつくらい挙げてみよう。
最近海外へ修学旅行に行く高校生が増えたようです。羨ましい事だ。
しかし行き先が東南アジア方面の場合、「お詫び行脚」の旅行をさせられる高校生達もいるとか。
“過ち”を風化させないために、「戦争中、ニッポン人がひどい事をしてごめんなさい!」と若者達にもぜひ謝罪をさせよう!という志を持った先生方が率先して企画されるようです。
詳しくは娘通信♪さんや散歩道さんのブログに過去ログあり。
(拾う暇なし、すみません)
謝られた東南アジアの方々は困惑してしまうそうです。
当然です。
日本人に「謝れ!」と言っているアジア人は中国・韓国・北朝鮮の人達だけなのですから。
わざわざ海外まで“日本人として”「すみませんでした」と謝りに行かされた高校生達は、自分がとても悪い人間のように思えて「悪い日本人」である自分自身を恥じてしまうだろうし、恨みもないのに一方的に詫びられてしまった東南アジアの人達も、仲良くしたかった日本人の子供達から頭を下げられて悲しい気持ちになってしまうかもしれません。
さて、気の毒なのは日本人の高校生でしょうか?東南アジアの人達でしょうか?

差別って何だと思いますか?
人権って何だと思いますか?

答えに怯むのが普通の感覚を持った人間なのです。
『差別』は言った者勝ち、という意見もありますが、そういう単純な問題ではないのです。
人の心が無限に「差別」を生み出し、譲歩を忘れた心が「人権」を肥大化させます。
あるいは「被差別者」や「弱者」に優しくあろう、自分はそんな優しい人間でありたいという、ある種の驕りが「人権」を肥大化させる事もあります。
このはっきりしないあやふやなものを法で取り締まるという事は、言論だけではなく、人の心そのものを取り締まるも同然なのです。
自分の何気ない発言が、思いもよらず誰かを傷つけてしまう事がままある、という事は誰しも大小の苦い経験から学んで知っている事でしょう。
進んで人を傷つけたい人はあまりいないでしょうが、しかしそういう事も時にはある、それが世の中・人間社会という事を大概の人は知っています。
そこから「憎しみ」や、相対する「慈しみ」、「癒し」といった様々な感情が生まれるのです。
その様々な「心」を法で取り締まられる事をあなたは望みますか?
私は望みません。

人権擁護法案は雲の上の話じゃない。
頭がいい人達の空中議論が白熱しつつある今、あえて私は無駄にPINGを打ちます。
ひとりでも多くの人の目に触れるように。
この法案を一部の人達の専売特許的な話にとどまらせないために。
幸いにもポリティカルコンパスが効いたのか、アクセス数は普段の倍以上です。
リンク・紹介してくださった方々に多謝。
この法案について、私は難しい話はしません。
私自身アホのパー子だしな。
大袈裟ですが、国民すべてが考える機会を平等に与えられるべきです。
考える機会を奪っているマスコミの罪は大きいよ。
この件に関してはアクセス稼ぐために頑張ります。
アクセス=周知だから。

以下の記事を読んだってください。
ではでは。

「人権擁護法案が可決される事によって起きる事態の懸念」
「自由にブログが書けなくなる法案」
「国民から「発言の自由」「表現の自由」を奪う人権擁護法案」

すげー長いエントリーになってしまった…。
周知失格!(>_<)
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by yuzuruha_neko | 2005-03-23 23:58 | 今日のニュース・雑考
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