【中国四千年】年表を見て質問
1912年 袁世凱・孫文らの手により清国最後の皇帝愛新覚羅溥儀が退位(清国滅亡)
1912年 孫文が中華民国建国
1915年 袁世凱が中華帝国の皇帝に即位?
1916年 袁世凱退位、死去
1923年 関東大震災を受け愛新覚羅溥儀(大清皇帝の尊称あり)が日本に義捐金や紫禁城内の宝石類を送ると表明、吉沢謙吉大使に伝えられ、日本政府はこれに対し同額を皇室から支出し、宝石類は皇室財産として保管すると返答、後日溥儀のもとに代表団を送り感謝の意を伝える
1924年 馮玉祥と孫岳が起こした第二次奉直戦争によって北京政変(クーデター)が起き溥儀と側近らは紫禁城から強制退去させられ上海租界や天津租界のイギリス公館やオランダ公館に庇護を申し出るも内政干渉への恐れから拒否され吉沢を通じて日本の北京公使館の庇護下に(日本軍も大物すぎて扱いに困っちゃう)
1928年 東陵事件(国民党によって乾隆帝や西太后の墓が暴かれ略奪が行われた)
1931年 満州事変
1932年 満州国建国・リットン調査団訪問
<-----この間溥儀は日本政府というより関東軍に疑念を抱き始めた?----->
1934年 満州国皇帝に溥儀即位、康徳帝となる
1935年 昭和天皇の招待で溥儀来日、昭和天皇が東京駅まで溥儀を迎えに行かれた(スゴ!)
1937年 盧溝橋事件により日本軍と中華民国軍の間で支那事変(日中戦争)勃発
1938年 愛新覚羅溥傑と嵯峨浩結婚(テレ朝の下賜ドラマ見るべし)
1940年 溥儀二度目の来日、追っかけが出来るほど日本国民に人気あったらしい
1941年 太平洋戦争開戦、日本は英米蘭豪などの連合国と交戦状態に
1945年 2月4日~11日、クリミアで行われたヤルタ会談(極秘の米英ソ首脳会談)によりヤルタ協定(極東密約)などが取り交わされ戦後の領土分割について多くの話し合いがなされたが、該当国不在の取り決めは当然ながら批判され、後の世界情勢に大きな影響を及ぼすことになる
1945年 8月8日、ソ連政府から日本政府に対して1946年まで有効の日ソ中立条約の破棄が一方的に通告され満州国へロシア軍が進行(むろん駐ソ大使に通告されたが大使館から本土への電話回線はすべて切断されていたため完全な奇襲となった)
1945年 8月15日、ポツダム宣言を受諾し日本政府は無条件降伏
1945年 8月18日、溥儀満州国皇帝退位



1949年 中華人民共和国建国


質問:確かに日本軍は中華民国(現在の一般呼称は台湾)という公式承認はされていない国と戦争していましたが、なぜ中華民国を独立国家として承認しないよう諸外国にも圧力をかけている中華人民共和国に責められているのですか?
「ひとつの中国」という主張であればともかく、とりあえず中華人民共和国がそう主張したら笑っちゃうだけの材料はたくさんありますし、それを無条件に主張できない国情も大珍妙です。
疑問:ムソリーニやヒトラーを殺害して降伏したイタリアやドイツは戦争終結を早めましたがそれが尊敬に値する行動かどうか、その後のドイツの「戦犯」処理を見ると私はあんまり尊敬できないというか、手前らで民主的に選んだ指導者(敗戦国として多額の賠償金を背負わされた経済苦を改善させた手腕に賛辞を贈ったでしょう?彼は最初から「戦争をしよう」と主張していたわけではない)をアンタッチャブルとすることでのちのちの批判をかわそうという選択はユダヤ人を同和化させるなどいろんな意味でダメダメな選択だったと思います。
なぜナチスがダメなのか検証すら許さずヒトラーの演説を着メロにしたら拘束ってどうなんさ。
同情:清国滅亡後、溥儀ってほんっと頼るとこがなかったんですねぇ…
傀儡政権だという関東軍への批判はもっともですが、溥儀に日本以外の頼り先があれば満州国建国が実現できたのかどうかすらわかりません(溥儀は傀儡皇帝という印象が強いせいか日本では小物視されていますが実際は退位後も皇帝の尊称を持って紫禁城で生活していたくらい内外に影響力がありすぎる大物で日本軍も扱いに困っちゃう立場の人でした)。
溥儀の個人的な思いはともかく溥儀を傀儡皇帝に据えた関東軍を批判するなら他の関係諸国が溥儀を残虐蛮行日本軍から奪い返し救出する努力をしなかったことも批判するべきでは。
内政干渉を恐れて溥儀自身の庇護の申し出を断った阿片紳士国が責められないのは不思議。
阿片紳士国は旨い汁だけ吸えれば清国や中国がどうなろうと知ったこっちゃなかったわけだよ所詮カラードは同じ人類じゃないからな!

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by yuzuruha_neko | 2010-07-03 03:28 | 今日のニュース・雑考
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